ケルト神話
象徴としての動物
ケルト人の生活の様々の局面で、動物は象徴として大きな役割を果たしていた。実に多くの種類の動物が生贄として、またさらに弔いの儀式にも用いられていた事が実証されている。そればかりでなく、美術や文学の作品においても、動物のイメージは常に存在する。牡牛は『トェン物語』で重要な役割を担っている事からも想像できるが、富と権力の象徴であった。タルヴォス・トリガラヌス、すなわち「三本の角を持った牡牛」はブリテン島でも、ガリア地方でも尊崇の対象であったし、さらにターラでは国王の選出過程に深く関わっていた。国王たらんとする者たちはタルエス、つまりドルイド僧達が取り仕切った「牡牛の眠り」の儀式に参加する事が義務とされたのである。雄豚も生贄や、儀式の宴によく用いられた。ただし、牡牛に比べて雄豚の方はよりはっきりと戦争に結びついており、盾や鎧に描かれる事が多かった。これら以外の動物も、特別な魔力を持っていると考えられていた。例えば犬は病や傷を治療する力があるとされていた。犬の唾液に治癒力が備わっていると信じられていたのである。これに対して、鮭は知恵の源泉と考えられていた。このことはアイルランド、ウェールズの多くの物語で確認できる。フィン神話群では、「英知の鮭」の肉を食べる事でフィンは知恵を授かる。また、クルフフとオルエンの物語では、難題を果たそうとするウェールズの騎士たちはルウ湖の鮭に助力を請うのである。
オガム文字
オガム文字はケルト人が用いた古代のアルファベットである。イギリス諸島の各地でサンプルが発見されているが、もとはといえば南アイルランドで考え出されたものだと推測されている。各文字は縦横の直線、または斜めの線で構成され、木や石の塊の縁に刻まれた。様々の証拠から、紀元300年ごろから七世紀にかけて一般に用いられていたと思われる。ただし学者の中には、もっと古い時代にも永続性のない素材の上に記された可能性があると考えるむきもある。というのもアイルランドの物語には、樹皮上にオガム文字で記した本を集めた、大図書館の事に触れているものがあるのだ。『トェン物語』でクーフランは、コナハトの戦士への挑戦をオガム文字で石柱に刻む。さらにオガム文字には魔力があると信じられていて、ドルイド僧は占いの際に用いた。オガム文字という名称は雄弁の神オグマにちなんだものだ。肉体の武勲より言葉の力を貴んだケルト人は、このオグマを崇拝する事深いものがあったのだ。
ケルトの武器
ケルト人の武勇は有名である。従って彼らが武器を重視した事は驚くにあたらない。ハルシュタット時代に鉄加工の技術が導入され、紀元前6世紀の戦士たちはすでに重い、長刃の剣を用いていた。柄に豪華に装飾がなされたものが多く、琥珀、象牙、金箔などの象嵌がついていたりする。鞘、盾、兜などにも同じような装飾が施された。きわめて早い時期に、実践用の武器と、祭儀用の装飾武具がはっきりと区別されるようになった。装飾武具のほうには華々しい飾り付けがなされる一方で、実際の戦場での使用にたえる強靭さは備えていないのが普通であった。身分の高い武人が亡くなったときには、剣を手にした遺体が戦車の後部に寝かされ、様々の武器類は湖や川に奉納された。アーサー王が死ぬと魔剣エクスカリバーは湖に投げ込まれるが、そこにはこのような死者の武器の奉納という昔の習わしが反映されているのかもしれない。個々の武器に名前を与え、独自の能力を持っているとみなすのも、ケルト人特有の習わしであった。例えば、フェルグスの魔剣「クラドホルグ」(これはエクスカリバーの遠い先祖かもしれない)は、虹の端から端までの長さに伸び、丘の天辺を殺ぎ落とす力があるといわれた。同じように、「トェン物語」では主人公のクーフランが「ガエ・ボルガ」を縦横無人に用いる。これは恐るべき槍で、クーフランに武術を教えたスカーハハという魔法使いからプレゼントされたものである。
インヴォルグ
インヴォルグというのは、ケルトの季節の祭りの二番目のもので、二月、三月、四月と三ヶ月間に渡って続く。中心となる儀式が行われたのは二月一日で、豊穣を祈るものであった。農事暦でいえば、羊の分娩、子羊の授乳の時期と重なっている。この祭りは三位一体の神ブリギドにささげられたものだ。ブリギドは治癒、詞藻、鍛冶のそれぞれを司る、三つの顔を持っている。詩人はブリギドを文学的着想(インスピレーション)の源とあがめ、またお産に望む母親が安産を祈願したのもブリギドであった。アイルランドでは、フィリ(賢者)がブリギドを崇拝した。予言能力があるとされたからである。ブリギド崇拝は古代ブリテン北部で行われたブリガンティア崇拝と関係があるだろう。また、アイルランドの聖人である聖ブリジェットにも繋がっている。この聖ブリジェットの祝日が、インヴォルグと同じ二月一日となっているのは偶然ではない。
ケルト装飾
ケルトの文化でも最も独自でしかも普遍的なのは、装飾のスタイルである。このスタイルが発達したのは、有史以前ノラ=テーヌ時代の初期で、金属細工や石細工に主として用いられた。それが千年後にもなお脈々として息づいており、筆者僧や画家達が次々と製作していった福音書の写本にも描かれたのである。ケルト模様がこのように息の長い存在でありえた秘密としては、単純で応用性に富んでいるという事があげられよう。ケルト模様を構成する基本的な要素は、いくつかの単純な形である。つまり、螺旋、インターレース、雷文模様、鉤十字などが組み合わされ、複雑なパターンが生み出されるのだ。時には人や動物の姿がこうした抽象模様と組み合わされる事もあるが、その場合にはそのような姿は高度に意匠化され、全体のリズムを壊さないように描かれる。例えば、複数の人間の手足や髭が互いに組み合わされて、鉤十字や三角が描かれる。また、動物や鳥の体の端がだんだん細くリボンのようになり、それがさらに別の模様の一部となっていったりするのだ。ケルトの職人はこのような主題(テーマ)を元に、無数の変奏を奏でていった。それも、思いつく限りの媒体に描いた。その結果、剣に描かれた編み紐の文様が、豪奢な宝石細工にも、はては写本(マニュスクリプト)の聖像にも登場することになるのである。
ケルヌノス
ケルヌノスは角のある神で、ケルトの神々の中でも、最も古い一人である。西ヨーロッパにローマ文化の影響が及ぶ以前からの存在で、古くは紀元前4世紀に描かれた像が残っている。ケルヌノスの本質は自然神で、豊穣のシンボルである。加えて動物達の王でもあり、典型的な描き方としては、森の動物達に取り巻かれながら地面に座っている姿がある。豊穣のイメージは、膝に置いた金の袋や、豊穣の角によって表わされる。また豊穣の神という一面は、雄羊の角を持った蛇をあわせて描く事によって強調される事も多い。グンデルストラプの大釜にはそんな風に描かれている。ケルヌノスの角は普通鹿の角だが、他の動物の角の場合も無くは無い。持ち出す事の出来る鹿の角を備えている神殿も合った。ケルヌノスが季節の祭祀の中心であった事が推測されよう。アイルランドの伝説では、ケルヌノスはダグダという名の神々の父に関連付けられている。またさらに、ギリシアのパーン信仰とも関連があるかもしれない。
ニューグレンジ
複雑な装飾が施された、ニューグレンジの墳丘墓(パッセジグレーヴ)。この種の墳墓としては、ヨーロッパ随一のものという事が出来る。ダブリンから32キロの所に位置しているこの遺跡の起源は、紀元前3千年ごろにまで遡り、ブルー・ナ・ボーイン(「ボイン川のほとり」)と呼ばれる大規模な巨石遺跡の一部をなしている。このニューグレンジの墳丘墓に加えて、クノース及びドゥ−スと呼ばれる二つの墳丘、その他多数の石柱等によって、全体が成立している。ニューグレンジが特に有名なのは、横穴の内外に施されている精緻な彫刻による。主として螺旋、山形、ひし形等の抽象模様から構成されており、これらが描かれたのはケルト人がやってくる何世紀も以前だったはずなのに、ラ=テーヌ時代の職人に多大の影響を及ぼした。元来、ニューグレンジは当時の太陽にあわせて作られていた。すなわち、十二月二十一日の夜明けに、一条の光が小孔から差し込み、墓の石室内を照らし出す。そうして、火葬した死者の灰の入っている石棺にあたったのである。ケルト人がこのニューグレンジを宗教目的で用いたかどうかは定かではないが、彼らにとって重要なものであったことは確かだ。初期の物語にたびたび登場するし、そもそもニューグレンジという名前自体が「グラーニェの洞窟」を意味する。グラーニェがフィン神話群の中心人物であることは言うまでも無い。
モリガン
モリガンはケルト最高の、戦の女神である。戦場の上を飛び回り、兵士を励ましたり、戦死者の肉を貪ったりする。モリガンはクーフランの物語で、重要な役割を果たしている。最初クーフランに求愛するが、拒絶にあうと容赦のない敵と化し、あくまでもクーフランに死を齎そうとする。予言の力があり、姿を変える術も知っている。が、通常はカラスもしくは大ガラスの姿をしている。モリガンはアーサー王物語に登場する妖姫モルガンの元になったのではないかとも言われている。モリガンは三位一体の女神で、アイルランド伝説ではモリガンとして登場する事もあるし、バドヴ、マハ、ネヴァンという三つの顔のいずれかの形で登場する事もある。これら三人の人物は異なった神話に登場するが、おおむね交換可能である。マハは妊娠しているのに王の馬と競走させられたことを恨んで、アルスターの男達に呪をかける。ネヴァンがその恐ろしい唸り声を発すると、百人の戦士が恐怖のあまり死んでしまう。バドヴは戦いを前にした渡し場でよく姿を見かける存在で、死にそうな兵士の武器を水で綺麗にゆすぐのである。モリガンの中には、破壊的な性質と強烈な性的能力が共に備わっている。このような生殖と死の結合は、モリガンとシェーラ=ナ=ギグのつながりを示唆する。シェーラ=ナ=ギグというのは、アイルランドの教会や城などの壁によく彫刻されている人物である。
変身
初期のケルト文学で大きな役割を担っているのが、魔術や魔法である。それによって、主要な人物の運命が全て決定付けられるのである。そしてそのような術の中でも、予言、呪と並んで極めてありふれたものが変身である。神々は様々の姿になる事が出来るし、同様に人間の姿を変えさせる事が出来る事も多い。変身の対象としては動物以外のものも様々にあるが、やはり一番多いのは動物である。例えば『マビノギオン』では、プウィルは容姿、人物共に他界の王になりきってしまう。また、ケルト人は次々と姿を変えていくというのが好きであった。一例をあげると、スコットランドの俗謡「タム・リン」では、ジェインが恋人を妖精の群れから救出するには、様々の危険な姿に変身してゆく恋人にずっとしがみついている事が条件なのである。恋人は例えば、蛇、ヒキガエル、白鳥、赤熱した鉄の棒へと次々に変身していくといった具合である。タム・リンの救われるのが、サワーン(ハローウィン)の祭りの最中だというのには大きな意味がある。なぜなら、この時期には現実の世界と、超自然の世界との境界がなくなるので、奇妙奇天烈な変身が起きる可能性が最も高いとされているのである。ケルト人が変身に魅せられていたことは、彼らの空想豊かな芸術作品にも窺われる。金属細工、写本を飾る装飾などの分野で職人達が好んだ模様は、一見すると抽象模様でありながら、仔細に観察すると動物の体や頭部が浮かび上がってくるといった風なものであった。
エポナ
エポナは古代の馬の女神で、この名前は現代の「ポニー」(小型の馬)という単語の中に生き残っている。ケルトの神としては異例の事だが、エポナはローマ人にも崇拝され、十二月十八日がエポナの祝日とされた。この火には、荷を負う動物は全て休められた。たぶんこのようにローマ人にゆかりがあったからだろうか、エポナの描かれ方は例外的といえるほど一貫している。雌馬の背に横座りになっているか、馬の群れの中に立っている姿で描かれる事が圧倒的に覆いのである。これに対して、エポナが何のシンボルかという問題はもっと複雑だ。母なる女神として、エポナは聖職や豊穣と結びついており、幼い子馬と共に描かれる事もある。エポナはまた癒しと、人間の魂の庇護にも関連付けられている。エポナはナプキンを持っているとされる。ナプキンは競馬をスタートさせるものであったし、更にこれが比喩的に拡張して、エポナは人生の競争をもし切る存在と考えられた。もう一つエポナが持っているのは大きな鍵である。これは他界への門を開く為の鍵で、そこに死者の魂を導くのもエポナの仕事と考えられていたのである。
ケルト十字
西ヨーロッパの古代では長く石柱が太陽信仰のよすがとされていたが、やがてキリスト以前のケルト人たちは大きな柱状の彫像を作り、神域や墓所に置いた。それらの形状から察するに、がんらい樹木を象っていたのではないかと思われる。古代ケルト人は樹に深い信仰心を抱いていたのである。キリスト教が伝えられたあともこれらの彫像は生き残った。土俗の社を破壊したりすれば、改宗する人も改宗しないのではないかと、キリスト教の伝道者たちは考えたのである。むしろ彼らは彫像の上に十字を刻みなおす事で、それらをキリスト教の道具立ての一つとしてしまった。これはかの聖パトリックがはじめたのだといわれている。かくして6世紀の職人たちは、石の彫像を十字架に変えていったのである。その際螺旋、インターレースなど重要なパターンは全てケルトの金属細工から借りてきたので、世俗の文物との距離が近くなった場合も間々あった。例えば、アヘニの十字架の浮き出し飾りは鋲のようだといわれてきた。しかし10世紀を迎える頃には、人物を描く事がもっと普通になていた。この傾向が頂点に達したのは、「聖書の十字架群」である。
ターラ
伝説にアイルランド国王達が住んだとされる首府と称され、何千年も聖地として崇められたターラ。現在では、ミース州にある有史以前の墓所の遺構がそれにあたる。伝説によれば、ここでターラの次の王と最高位の女神との間で、複雑な儀式が執り行われたらしい。例えば、メーヴと交わる儀式というのがあり、これに参加した王は九人いたという。このまぐわいを拒否すれば、王になれなかったとされている。また、ファールの石に触れるという儀式がある。王たるべき者が触ると、この石は叫び声を上げるのだ。フィン神話群の中心人物であるコルマク・マク・アルトはターラに豪華旬欄たる宮廷を催し、十一月一日のサワーンの祝日には、盛大な祝宴が開かれたという。5世紀にはターラは九人の人質のニアルによって占領され、その息子であるロイギレ王が聖パトリックと対決したのも、このターラであったとされている。その後ターラは重要性を失っていく。とはいえ、十二世紀の「レンスターの書」には、アーサー王の「円卓」を彷彿とさせるほど立派なターラの祝宴広間が描かれているし、その後もターラはアイルランドの国民的統合の象徴であり続けた。発掘調査の結果、紀元1世紀から3世紀ごろの木造建築物の遺構が発見された。また、ファールの石に擬すべき石柱も存在する。このファールの石なるものは、元来ヤコブの枕だったもので、ユダヤの難民がアイルランドに運んできたのだと述べている文献が存在する。これに対して、本物はアルスターの王がスコットランドに移してしまったのだとする説もある。この説によれば、この碑石は後にスクーンの石と呼ばれ、王の即位式に用いられるようになり、更に時代が下るとそれがウェストミンスター寺院へと持ち去られ、以来そこに置かれているのだという。
首狩り
ケルト人は敵の首を切断するということにこだわった。このケルトの首狩りについて、昔から人々の注目が集まってきた。注目の原因としては、一部には残酷趣味を満たしたいというような心理もあるのだろうが、むしろこれが、ケルト人の習わしの中には国という境界を越えて広く行われたものもあったのだということを、れっきとして証拠づけてくれるからでもある。この首狩りについては、ギリシア・ローマの文献にも触れられていて、作者の覆い難いほどの興奮が筆致に表れていて面白い。例えばストラボンは次のように記している。「例の、野蛮で風変わりな習わしがある…戦場を後にするとき、彼らは敵の首を持ち去り…それを自分の家の戸口の所に釘付けするのだ」これは『トェン物語』が記す所ともぴったりと符合している。すなわちクーフランは敵の首を切り取り、戦車の側面に誇らしげに並べるのである。更にまた、アントルモンやロクペルテューズ(ガリア地方南部に位置する祭祀遺跡)での考古学的発見にも、首狩りの慣習が確認できる。すなわち切断された頭部を彫刻した柱廊(ポルチコ)、本物の頭骨を納めた壁龕等が発掘されているのである。このようにケルト人が頭部にこだわったのは、そこには魂が宿り、護符のような力があると考えたからである。アイルランド、ウェールズ、ブルターニュのどこの物語にも、「生きている」生首の話が出てくる。いずれの生首も話したり、飲み食いする事が出来るのだが、数ある中でも『マビノギオン』の「祝福されたブラン」の物語が最も生彩に富んでいるだろう。
サワーン
サワーンはケルトの重要な火の祭典だった。十月三十一日の夕方から、翌日丸一日に渡って祝祭が行われた。古い火が消され、ドルイド僧が世話をする聖なる火からつけなおすという儀式がその中心である。サワーンは新年の始まりを画するものでもあったが、この場合の「年」は太陽暦や収穫歴ではなく、牧畜の作業歴に基づくものであったようだ。従って、ケルトの一年の始まりは、放牧していた家畜を畜舎に入れ、食肉用と繁殖用に選別する時期に重なっていたのである。サワーンは更に死者の祭りでもあった。年が改まるとき、死者の魂が生者の国に戻り、かつての家に暖まりに帰るのである。悪霊の類もまた他界から解き放たれるので、それを慰撫したり、追放したりする必要があった。サワーンは後にキリスト教に取り込まれて、諸聖徒の日となった。そして古い異教の伝統の方は民衆的なハロウィーンの祭りの中に生き残った。
白鳥
ケルトの伝承物語には白鳥が良く登場するが、魔法がらみである事が多い。そして魔法世界の白鳥である事は、普通は首の周りに金や銀のネックレスをしていることでわかる。初期の物語には人間が変身した白鳥も登場する。「オエングスの夢」では、カエルという乙女は白鳥の姿をして生きており、求婚する男も白鳥の姿にならねばならない。またこれとは別に、リールの子供たちの悲劇的運命が語られる有名な物語がある。リールはアイルランドの海の神であるが、邪な後妻がドルイド教の魔法の杖によって子供達を白鳥に変えてしまった。キリスト教の鐘の音によって呪が解けるというこの物語の筋からすると、現存するリールの物語は比較的遅い時期のものである事がわかる。しかし、ケルトの時代をずっと通じて白鳥は重要な存在であり続けた。白鳥の姿は紀元前700年から500年ごろに用いられた、儀式用の容器にも描かれている。
ケルトの写本彩飾
ケルト芸術が最後に大輪の花を咲かせたのは、写本の装飾であった。この活動が促された基には、ブリテン諸島が徐々にキリスト教に改宗していった過程がある。こうした改宗への努力には2系統の路線があった。一つは教皇が公式に送り出した使節団で、イングランドにおける聖アウグスティヌス、アイルランドにおける聖パラディウスのような人が指導者であった。これに対して、もっと自発的にキリストの教えを広めようとしたグループがあった。こちらの代表的な人物としては、聖コルンバ、聖パトリック、聖イーダンなどの名前があげられよう。この人々はローマの権威を直接的には認めなかった。そのかわりとして彼らは半独立のケルト教会を設立した。これはいくつかの修道院が寄り集まった、ゆるい組織であった。代表的な修道院として、ダロウ、リンディスファーン、ケルズなどが挙げられるが、これらの修道院にはそれぞれ筆者室があり、彩飾写本が製作された。ケルトの教会に対する教皇の支配権は、664年にホイットビー(イングランド北東部の北ヨークシャーにある海辺の町)会議で決定された。しかし、この頃までにはアイルランドの筆者室から生み出される作品は高いレベルに達していたので、聖書など、聖なる書物は地元でコピーすべく、ローマから送られてきた。写本の彩飾をめぐるこうした歴史的背景は重要である。というのは、何故あのような種類の写本が作られたかがそれによって説明できるし、更に挿絵が極めて折衷主義的である事にも説明がつく。新たな改宗者を増やす事が依然として教会の主用関心事であったので、布教活動に使える本がまず優先された。従ってケルト彩飾の最大傑作は何冊かの豪華な福音書に含まれる事となったのだ。最も有名な例は、ダロウの書(675年ごろ)、リンディスファーン福音書(698年ごろ)、ケルズの書(800年ごろ)である。これらの書物としての形式には相当のばらつきがあるが、大まかに言って『新約聖書』の四大福音書からなり、それに三つの形式の装飾ページがついている。三つの形式とはすなわち、福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)などの肖像、絨毯ページ、頭文字(イニシャル)ページである。このうち肖像は福音の書物で最もケルトらしくない部分で、ローマから送られてきた写本の影響をもろに受けているものが多い。例えば、リンディスファーン福音書の福音書記者の肖像はローマの画家のお手本を模しているし、ケルズの書のマリア像はビザンティンの聖画像との類似点が多い。これと好対照なのが、肖像画以外の装飾ページである。それらはあでやかに様式化されたスタイルに貫かれている。まず絨毯ページは純粋に模様のページで、意匠の真中に十字のあるのが普通である。これに対して、派手派手しい装飾文字が描かれた頭文字ページはもっと装飾的である。ただしこちらには実用的な役割もあった。聖書を章句に分ける事は当時まだ行われていなかったので、巨大な頭文字が所々についていると、切れ目なくだらだらと続く文章の中で場所を特定するよい目印となったのである。絨毯ページ、頭文字ページのどちらの場合にも、古代ケルトの武器、宝石、馬具などに描かれていた模様が基調になっている。こうした装飾には、緊密に組み合わされた螺旋やインターレースなどの複雑な抽象模様も、空想上の獣、鳥、蛇などを独創的に組み合わせたものなども含まれる。こうした動物は過激なポーズを取らされている事が多い。隣の動物の尻尾を噛んだり、首に巻きついたりといった具合で、聖書にはふさわしくないといえなくも無い。しかしこのように異教的な野性味とキリスト教的な敬虔が混ざり合っているという独自さが、まさにケルトの写本の強烈な魅力なのである。
頸環(トルク)
トルクとは、文字通り首にはめる環―装飾品であった。初期のものはハルシュタット時代にまで遡る。ドイツのホッホドルフの埋葬遺跡から豪華な作品が出土しているが、ここには紀元前6世紀ごろからケルト人が住んでいたと考えられている。トルクを帯びる習慣は東方からやってきたようで、初期のものは女性の墓で見つかる事が多い。ところが後になると、もっぱら男性が帯びるものとなったようである。トルクは高い身分、地位をあらわすものであった。黄金製のものも多く、族長クラスの人はトルクをつけて葬られた。願いをかけて神に奉納される事もあったが、儀式で傷をつけられることもあった。例えば、ガリア地方のタヤックではトルクが三つに割られ、コインの山と一緒にうずめられた。また、トルクは神が持つものでもあった。ケルトの神は一つ目のトルクを首に帯び、もう一つを手に持っているというように描かれる事が多い。これは豊かさを意味しているのである。トルクの事は数多くの文学作品、歴史記述で触れられている。『マビノギオン』でオルエンは宝石つきのトルクをつけている。また、ディオカッシウス(A.D.155?〜23?。ローマの歴史家)によれば、女王ボアディケア(紀元62年死亡。東部イングランドに住んだ古代ケルトのイケニ族の女王。ローマに叛旗を翻して失敗した。)は、戦いに出るときは必ず「大きなねじれた形の黄金のネックレス」をはめていたらしい。ボアディケアの部族の住んでいた地域の数箇所から、実際にトルクが多数出土しているので、この記述は正確ではないかと思われる。
大釜
大釜は先史時代の様々の民族にとって、日常生活に欠かせぬものであった。青銅器時代の終わりごろの考古学的遺跡を調べる事により、大釜が儀式の宴や、ある種の弔いの儀式に用いられていた事がわかっている。ケルトの時代になると、大釜は聖なる場所で神に奉納された。奉納される対象が大釜の中に詰め込まれた貴重な品である場合もあったが、大釜自体の場合もあった。デンマークと北部ドイツの泥炭湿地から出土したものが有名である。ケルトの文学や民話には、よく魔法の大釜が登場する。例えば、ある物語ではアーサー王とその家来達が地下世界に旅をして、伝説の大釜を盗む。この大釜を熱するには九人の処女の息が必要で、臆病者の為には料理が出来上がらない。この物語が「聖杯」探求の物語の大本になったのだと考える学者もいる。「タリエシンの書」に登場する知識と霊感の大釜もやはり魔法の大釜である。これがいわゆる魔女の大釜の伝統へと繋がっていったのではあるまいかと思われる。しかし大釜という語は、後にキリスト教の人々の書いた文章にも用いられるようになった。例えば、中世の詩で処女マリアの事を「霊感の大釜」と呼ぶのは極普通の事であった。これに加えて、大釜は死と再生にも関連している。例えば『マビノギオン』のある物語では、死んだ兵士は祝福されたブランの大釜で夜を徹して煮れば蘇るのである。ただし、その過程で喋る事が出来なくなるのではあるが。
吟遊詩人
ギリシア・ローマ人の資料によれば、ケルト社会の知識人は三種類に分かれていたという。すなわち、ドルイド僧、吟遊詩人、及びフィリである。それぞれが異なる役割を持っていたのだが、その中で吟遊詩人は詩と音楽を主たる専門とした。頌詩、風刺詩等を主に作ったが、他界の祝祭儀式の詩を製作する事もあった。こうした吟遊詩人の作った詩が、魔法の力を発揮すると述べているケルトの伝説もある。例えばファフネが作った風刺詩を聞いた人には、発疹ができたといわれる。また、タリエシンが口を尖らせば吟遊詩人は喋れなくなったらしい。マーリンが吟遊詩人と呼ばれる事もある。マーリンは、世がキリスト教の時代になるとバージー島(「吟遊詩人の島」)に九人の吟遊詩人と共に引きこもったと、ある伝説で言われている。そこでマーリンは魔法の眠りにつきながら、ブリテン島の十三の宝物を守っているのである。ケルトの時代が過ぎ去った後も、吟遊詩人の伝統は残った。そしてアイステッドファッド(毎年8月初週に南北ウェールズで開催される、ウェールズ語による音楽・演劇・吟唱詩大会)の創立によって、新たに勢いを盛り返した。アイステッドファッドの歴史は1176年にまで遡る。デヒューバルスの大司法官であったリースという人物が、歌や詩の技を競い合う会を組織したのが始まりである。中世の間にも同じようなコンテストが催されていたが、1789年にそれが復活して定期的に行われるようになった。現代のアイステッドファッド教会は1880年に創立された。
他界
初期のケルト文学で最も印象深いものの一つは、生身の人間と他界からやって来た者が絶えず交流している事である。変身する人物、その他の魔法が使える人物などに接しても誰も驚かないし、他界の翳の世界から何かを取り出そうとする試練にも、人間たちは抵抗なく乗り出してゆく。この他界にはいくつか異なった名前がついており、それぞれにまつわる伝説群がある。ウェールズの他界はアンヌンと呼ばれる。この国はプウィルの物語に登場し、この物語の中では大して恐ろしい場所には見えない。しかし、『アンヌンの略奪』(『タリエシンの書』に描かれる物語の一つ)に描かれたアヌウンは死を蒔き散らす場所である。魔法の力を持った豊饒の大釜をアーサーが手に入れようとするが、家来達のほとんどが死んでしまう。また、これと同じくらい危険なのが、アンヌンの犬である。アンヌンの犬というのは幽霊犬で、これが夜空を飛び回る姿は誰かが死んだり天変地異が起きる前兆である。アイルランドの伝承では他界はもっと様々の姿に描かれているが、ケルト特有の来世観と結びついている事が多い。もっとも暢気で牧歌的なのが、ティル・ナ・ノーダである。そこは永遠の青春の国で、オシーンが恋人のニアヴとやって来て、三百年の歳月を過ごす。これに劣らず愉快なのが、他界の宿ブリドヘンである。これはケルト版ヴァルハラといった所である。そこには宴会、酒宴、音楽、恋愛しかない。この中でも、宴会が最高の位置をしめているようだ。たくさんある宿のそれぞれに無尽蔵の大釜がある。この大釜で煮て食べた動物は、次の日には再び生き返る。ところが、何か問題の生じる事もある。そのような自体を描いているのが、きわめて著名な物語『ダ・デルガの宿の崩壊』である。他界に達する道はいくつかある。メイヴの王宮の近くにあるクルークン洞窟は他界への入り口として比較的有名なものである。しかし生身の人間の場合は舟で湖を渡っていくとされたものもあれば、あるいは他界が海の波の下にあるとする物語も存在する。サワーンの祭りでは、霊魂と人間が現実世界と他界との間を自由に移動する。またケルトの英雄が冒険に乗り出すのもこの時期である事が多い。その際、他界に入るために変身する事もしばしばだ。もう一つ別の種類の他界として、妖精塚―シー―があげられよう。これは太古の神々の一族であるトゥアサ・デー・ダーナンが、侵入してきたミーレ王の民(アイルランド人)に敗れて逃げ込んだとされる地下の住居のことである。それぞれの神が、小丘もしくは先史時代の墳墓の内側に自分の洞窟を持っていると伝えられている。sidheという名前はバンシー(bansheeすなわち女妖精)という語の中に残っている。他界と塚とのこのつながりは重要である。初期のケルト人が周囲にある古代の墳墓を敬っていた事が、これによって示されるからである。従って、最も重要な妖精塚がアイルランドの最も有名な二つの遺跡―ニューグレンジとターラ―にあるというのも、決して偶然の事ではないのである。エングスが住んでいたブルー・ナ・ボーインは、ニューグレンジを含む巨石遺跡の集合体に他ならないし、またターラを背景とする様々の冒険のうちでも、フィンとアレンの戦いは有名である。こうした塚は、その内部にだけ魔法が潜んでいるのではない。例えばプールの物語で、プールがリアノンと出会う事が出来るのは、アルベルスの謎の塚の上にプールが腰を下ろしたからである。これはウェールズ版の妖精塚に他ならない。
タリエシン
タリエシンは半ば神話的な人物で、ウェールズで最高の吟遊詩人といわれる。タリエシンの生涯についての情報は乏しいが、六世紀の人で、ウリエン・レーゲドという名のブリテン人の族長に仕えた人物だったらしい。この人物に対してタリエシンの詩が献呈されているのである。これに対して伝説の伝えるところはこうだ。タリエシンは吟遊詩人ヘンヌグ(「アスク河畔のカールレオン」の聖ヘンヌグとして知られている人物)の息子であった。ヘンヌグはローマまで行き、ブリテンに宣教師を派遣するようコンスタンティヌス帝に願い出たといわれている。タリエシンはグラモーガンのランヴェイスィンにある、詩人を養成するかトゥグ校で学び、洗礼を受けたブリテンの三大吟遊詩人の一人となった。バンゴル・テイヴィで亡くなり、アベルストウィスの近くのケルンの下に葬られていると考えられている。タリエシンが有名なのは、中世の騎士物語で多彩に描かれているからである。ゲスト版では、タリエシンはマエルグンの宮廷にいたとされているが、その他の物語では、アーサー王のお抱え吟遊詩人だったとか、祝福されたブランの仲間だったなどと述べられているものもある。また、タリエシンは預言者、魔法使い、ドルイド教の神秘に通じた人でもあったと述べられている。これは同じような能力を持っていたとされるマーリンとの混同が生じているのであろう。そういえば、マーリンもタリエシンも父親なしに生まれてきたという所も共通している。
聖なる泉
様々な形で水はケルト人にとって神聖なものであった。儀式用の武器や宝石などの貴重な品物が、神への奉げ物として川や湖に投じられる事も多かった。沼や湿地に崇拝の対象物をわざと捨てる慣行も、多分これに関係があるのだろう。また泉や湧き水には病や怪我を癒す力があると信じられていた。この場合、神への奉納品は木を削って作った模像であった。何を模したかというと、治療を必要とする手足や臓器である。こうした癒しの泉は、また同時に豊饒祈願とも結び付けられていた。祈願する人々はクルーティと呼ばれる小さな奉納品を、泉のそばにピンでとめた。やがてピンそのものが奉納品となり、ブルターニュでは若い娘達が祠の中でピンを地元の聖人の像を象って並べるという習慣が、かなり最近まであった。来年には結婚相手が見つかりますように、子宝に恵まれますようにとの願いを込めたのである。湧き水はまた他界とも関連が深かった。ケルトの伝説には、ある種の儀式を行う事で湧き水が魔法の力を発揮するというような話がある。事に重要な人物の生首が泉に投げ込まれると、そうなる事が多い。こうした聖なる泉はキリスト教が広まってもその重要性が低下する事はなかった。むしろ教会がこれを自分の側に取り込んで利用しようと大きな努力を払ったのであった。特にブルターニュでは、地元の聖人にささげられた聖泉が、教会の境内にあることすら稀ではない。
ピクト人の絵文字
ケルト芸術には大きな地域的バリエーションがある。ピクト人を例に挙げよう。解読はまだ完全には成功していないが、ピクト人は一種の絵文字を持っていて、それを石に刻んだ。そのような文字版で残っているのは二百強であるが、元来もっと多数あったはずだ。絵文字には動物、奇妙な合成獣、櫛や鏡といった家財道具、V字型の棒などの抽象的な形などが含まれている。石版自体は墓碑や国の境界を示すものであったと思われる。キリスト教改宗以降になると、ピクト人は手の込んだ石版の十字をこしらえた。すなわち石の平面上に十字が浮き彫りにされ、そこに伝統的な模様があしらわれたのだ。一方、十字の背後には謎のようなピクト絵文字が刻まれた。このようなピクト人の描いた模様と、福音書の彩飾写本に見られる装飾との間には、様式的なつながりのある事が証明されている。
ルイス島のチェスの駒
初期のケルト文学にはチェスや、それに類似したボードゲームの事が良く出てくる。例えば「トェン物語」では、クーフランやその仲間がフィドヘル(文字通りには「木の知恵」の意味)と呼ばれるゲームに興じる場面がたびたび描かれる。このゲームはルーグが発明したものだとかつて言われていた。フィドヘルの目的は王の駒を盤の端まで動かす事で、相手のそのような試みを妨害しながら競うのである。ウェールズでは、このゲームに相当するものとしてグウィズブウィルがある。後の時代になると、中世の多くの騎士物語にチェスが彩りを添えることとなる。たとえば、驚異の城でペレトゥルは生きているチェス盤に出くわす。この盤では、駒は全て自分で動くのである。どの物語を読んでも、こうしたゲームが贅沢品であったことは明らかだ。それらを用いて遊んだのはもっぱら上流階級の人々である。その事を明かしてくれるのが、ルイス島のチェス駒である。駒はセイウチの牙で作られ、美しい装飾が施されている。玉座を構成する装飾パネルに特に顕著である。ルイス島のチェス駒は、1831年にルイス島の砂丘で発見された。十二世紀半ばのものと推定されている。城壁(あるいは歩兵)の上に刻まれたいようなしかめ面、盾の上縁をぐいとかみ締めた表情は「トェン」に描かれた戦士たちの風変わりな振る舞いに一脈通じるものがある。また、歩は戦死者の墓石のような印象を与える。これらの駒の大きさから見て、昔のチェス盤は今の平均的なものより大きかったのではないかと思われる。その事を念頭に置けば、ディアルマッドが「若返りの樹」の実をチェス駒に百発百中で当てる名人芸も、多少なりとも不自然さが減るかもしれない。セイウチの牙を彫ったルイス島のチェス駒は、全部で78個ある。表情豊かな駒たちは、ナイト、ルーク、ビショップ、ポーン、クイーンである。
ドルイド僧
ドルイド僧は初期のケルト社会で中心的な役割を演じていた。宗教的な役目は言わずもがなであるが、彼らは同時に裁判官、教師、政治の助言者でもあった。国王ですらドルイド僧の前には膝を折らねばならなかった。「トェン物語」でスアルダヴがドルイド僧たちの前で許可なく口を開いたのが重大な過失とみなされるのは、このような理由による。スアルダヴのメッセージにいくら緊急性があっても、事情は変わらない。ドルイド僧は自分たちの活動については、秘密主義に徹した。その結果として、ドルイドに関する現代の知識はほとんど全てがギリシア・ローマ人の記述や、キリスト教徒の文書からきている。カエサルの記す所によれば、ドルイドの教えはもともとブリテン島で生まれたという。また、ドルイド教は霊魂の輪廻を信じていたとも記している。ケルトの戦士が死をほとんど恐れなかった理由はそこにあるというのが、カエサルの結論である。無惨な生贄の儀式については、カエサルばかりか、多くのギリシア・ローマの人々が記録している。占いのときにドルイド僧が生贄にされた動物のはらわたを仔細に調べたのは事実だ。しかし、彼らが述べているように、巨大な枝編み細工の像に人間を閉じ込め、焼き殺したかどうかという点については、疑問の余地が大いにある。初期のケルト社会ではドルイド僧が政治的、宗教的な力を持っており、社会の最上層を占めていた。
マン島
マン島という名称は多分アイルランドの海の神マナナン・マク・リルに由来している。伝説では、マナナンがこの島の初代の王であったという。マナナンには変身する能力があり、更に様々の魔法の品々を所有している。主人の意向をくんで進んでくれる小舟や、いかなる鎧も突き破る剣などである。マナナンの戦車の馬は大きな波の姿をしている。ウェールズではマナウィダン・ファブ・リルという名前で呼ばれており、『マビノギオン』にその物語がある。古代スカンディナヴィアからの侵入者の手に落ちる以前には、マン島はケルトと強い絆で結ばれていた。ゲール語の一方言である独自の言語があり、今ではすっかりおなじみになった三脚の紋章――三脚ともえ紋――は、ケルトの職人によってもデザインに広く用いられた。マン島は更に文学の面でもケルトと共通の遺産を持っていた。例を挙げれば、「フィン アス オシン」という俗謡がある。これは「フィンとオシーン」というアイルランドの物語の一変種で、それにオリー王の逸話が混ざりこんだものである。
ルグナサド
ルグナサドは夏の祭りである。ケルト歴の一年の最後の四分の一をスタートさせるもので、八月一日が祝祭の日である。おそらく秋の収穫と結びついていたように思われる。その事は、キリスト教の時代になるとルグナサドに取って代わって"収穫祭"(ラマス)が祝われるようになった事から確認できる。ケルトのルグナサドは「輝く者」を意味する太陽神ルーグが始めたものだとされている。言い伝えによれば、ルーグは育ての親である農業の女神タイルトゥがブレグの森を一掃して死んだので、その栄誉を称えていくつかの競技を行う事とした。この競技は古代ギリシアのオリンピックのように定期的に開かれるようになったという。ルーグはケルトの多くの部族の間で崇拝された。例えばガリアではルグスと呼ばれ、ルグドゥヌム(リヨンの呼称)という町の名前の元になった。ルーグの能力は多彩である。アイルランドでは無敵の戦士として、また名人級の魔法使いとして崇拝されていた。ルーグはコナハト軍と戦うクーフランに助太刀し、更に工芸の神々が魔法の武器を作る手助けもする。後になるとこの匠人としての役割がもっと前面に出てきて、ルフクロマン(「猫背のルーグどん」)と呼ばれるようになった。また、それが英語化されたのが小妖精(レプラコーン)「Leprechaun」である。
ランデヴェナック
ランデヴェネックの僧院はクロゾン半島の上にある。カンペルレから北西に25マイルほど行ったところだ。ここはイス伝説との最も具体的な接触点である。というのも、二人の主要人物――聖ゲノルとグラドロン――がここに葬られていると考えられているのだ。おまけに、修道院を設立したのも伝統的にゲノルだとされている。ただし、5世紀の修道院の痕跡はまったく見られない。古い聖ゲノル伝によれば、聖ゲノルはウェールズのフラカンという王の子供として生まれたが、ブルターニュ沿岸の小さな島に移り住み、島を海賊の襲撃から守り、その際奪った海賊の宝で修道院を建てたという。この記述に歴史的根拠はまったくないが、ランデヴェネックが急速に宗教的な重要性を増していったことは間違いなく、更に他のケルト地域とも密な接触を保ち続けた。ブルターニュの修道院の中でも、アイルランドの修道院制度の影響が最も如実に表れているのがランデヴェネックである。聖ゲノルがアイルランドの聖パトリックと行動を共にする事を望んだという伝説が今でも伝えられているが、その根拠はこの辺にあるのかもしれない。更にまた、聖ゲノル崇拝は海峡を渡ってコーンウォルに伝播した。聖ゲノルが英語化した聖ウィンワロウを祀る教会がコーンウォールには五つもある。
カルナック立石群
カルナックに残っている先史時代の遺跡は古代ヨーロッパの驚異の一つである。五千もの立石(メンヒル)がメネック、ケルマリオ、ケルレスカンと呼ばれる三群に分かれて存在する。新石器時代のものであるが、正確な製作時期、目的は不明である。ケルマリオが「死者の館」を意味する所から、立石群が弔いの儀式に関係があると古来信じられてきたが、現代の考古学はそれらが天文学上の目的と結びついていたのではないかという説に傾いている。しかし考古学的研究は19世紀末の「修復」によって重大な障害を受けている。「修復」の作業により、多くの石が立てなおされ、もともとの配列がわからなくなってしまったからである。カルナックの立石遺跡はケルト人が定住する以前から存在していたが、初期の伝説の多くに登場するので、後の世代のフランス人たちはケルト人によって作られたものだと考えていた。伝説の中で最も生彩に富むのは、聖コルネリにまつわる物語である。地元の人々は聖コルネリは教皇コルネリウスと同一人物だと考えている。コルネリウスは極短い期間(251〜253)年だけ教皇をつとめた後、ローマから放逐されてしまった人物である。実際にはチヴィタヴェッキアに追放されたのだが、ブルターニュでは、ローマ軍に追跡されてカルナックにきたのだという話になっている。逃げていて海にぶつかってしまったので、コルネリウスはぐるりと振り返って、神に救いを祈った。すると迫害者たちはその場に凍りついてしまい、カルナックの立石群になってしまったというのである。このように教皇と結び付けられた理由はおそらく、名前が似ているというだけのことであろう。聖コルネリは地元では角の生えた動物の守護者(corneはhornすなわち「角」である)とされているが、元来異教の神であったのが、後にキリスト教に取り込まれて聖コルネリとなった可能性もなくはない。というのは、土俗の牡牛崇拝がかつてカルナックで盛んに行われていたからである。19世紀初頭、フランスでケルト復興が勃々として起きていた頃、カルナックの遺跡について奇説を唱えた人々がいた。カルナックはもともとドルイド教の寺院で、列石間の空間にはドルイド僧と、そこに詣でた巡礼の為の住処が建っていたのだと言い始めたのである。また、扁平石(ドルメン)の平らな表面は供犠の祭壇として用いられたのだと、おどろおどろしい話のおまけ付きであった。ドルイド僧云々は大部分勝手な空想に過ぎないが、初期のブルターニュの人々が自分達の地方の巨石の遺構を大事なものに思っていたことは事実である。多くの場合、人々は巨石の群に想像力を刺激されて異教的な迷信を生み出す事となったが、そうした迷信はキリスト教の時代になっても生き続けた。立石が男根を連想させる事を考えれば、迷信のほとんどが豊饒神話に通じるものである事は驚くに足りない。一例を挙げると、フィネステールのケルロアにはブルターニュでも一番背の高い部類の立石が立っている。幾世紀にも渡って、新婚のカップルが夜にそこへ行き、裸で石の周囲を踊りまわる習慣が行われていた。こうして男児に恵まれる事を祈願したのであった。この習わしは19世紀にはまだ残っていた。ただし、その頃ともなるとさすがに服を着て踊ったようである。キリスト教の布教者は、立石を自分達の目的の為に利用する為、キリスト教のシンボルを石に刻んだ。これらのシンボルの中にはきわめて精巧なものもある。例えばサン・テュゼックでは、処女マリアとキリストの受難劇に関わった人々の像が石に刻まれている。この他に、立石はそもそも異教的な連想を伴うものではあるが、いとも単純に、その上にキリスト教的な伝説を被せてしまったような場合もある。シャン・ドランの立石が良い例だ。これは聖サムソンが悪魔に向かって投げつけた石だというのである。また、ランリヴォアレの八個の小さい石には、施しを拒んだパン屋を罰する為に、聖エルヴェがパンを石に変えてしまったのだという伝説が残っている。
ベルテーン祭
ケルトの季節の祭りで最も有名なのはベルテーン祭である。五月一日がその祝日で、この日から夏となり、家畜の野外放牧が始まる。ベルテーン(Beltane)といういい方はベル・ティンヌ(Bel-tinne)――「ベルの火」――に由来しているので、元来はベルニュスという名の神を祀る機会であった事がわかる。このベルニュスというのはガリアの太陽神で、ケルト世界の各地で様々に姿を変えて崇拝されている。ローマ人はベルニュスをアポロになぞらえた。ローマ人の文書によれば、プロヴァンス、ブルゴーニュ、北イタリアなどにベレヌスを祀る社があったという。ベルニュスはまた様々の固有名詞にも痕跡を留めている。ブリテンの王シンベリーン(クノベリヌス、すなわち「ベルニュスの犬」を意味する)、ロンドンの地名ビリングズゲートなどがそうである。ベルテーン祭は火の祭典であった。丘の頂などの聖なる場所で焚き火が行われた。アイルランドでは二つのドルイド僧の焚き火の間を牛に走らせる習慣があった。これは牛を病気から守ろうとする、厄除けの行事であった。ケルトの祝祭の中で最も最後まで生き長らえたのは、このベルテーン祭である。スコットランドのある地方では18世紀まで行われ、年間に四度ある節季日の一つが、古くはベルテーンの日と呼ばれた。また、スコットランドからの移住組によって、カナダ、南アフリカでもベルテーン祭が行われている。祭り前夜は魔の時刻で、魔女や霊魂が人の世に徘徊する。現代では聖ヴァルブルガにちなんで、ワルプルギスの夜と称されている。
カルヴァリ
ブルターニュの教会で最も特徴的なのは教会の内陣である。それを構成する三つの主要な要素がある。本堂との仕切りアーチ、カルヴァリ、納骨堂がそれである。この中で視覚的に最も印象深いのはカルヴァリである。ではカルヴァリとは一体なんであろうか?それは基本的には、大掛かりな彫刻作品の集合体である。キリストの降誕から受難に至るまでの様々のエピソードを、磔刑の場面の周りに配置したものだ。カルヴァリは時に野外に置かれ、人々を教化するのに用いられる事もある。また、ブルターニュの地元の聖人を祀る祠が含まれる場合もある。更に聖書の場面に、ブルターニュの民話に登場する人物、例えばカテル・ゴレー―すなわち「呪われたキャサリン」が含まれる事もある。カテルは美貌の罪人である。聖体拝領のための聖餅を盗んで悪魔に与える。そのために、地獄の責め苦に苛まれるのである。このようにカルヴァリが最も目を引くが、やはり内陣の中心は納骨堂である。死者の崇拝はブルターニュ文化の本質な部分としてあり、墓は常に共同体の中心であった。墓が一杯になると、遺骸が掘り出され、納骨堂に移された。時として頭骨が治められた箱には印がつけられた。親族の者たちが自分の身内の骨を拝む為である。また稀ではあるが、頭骨が教会内部の棚に展示される事もあった。
ブルターニュの聖人
ブルターニュには地元の聖人が何百人もいるが、その中でローマで正式に認証されているのはほんの一握りに過ぎない。こうした聖人たちの多くは、ブルターニュではなく、他のケルト地域――すなわちウェールズ、コーンウォール、アイルランドなどから、五、六世紀の移民時代にやってきた。最も重要なのは七人の始祖聖人(聖マロ、聖ブリウク、聖ポル・アウレリアン・聖サムソン、聖テュグデュアル、聖コランタン、聖パテルン)である。これらの聖人は、創始されたばかりの七つの司教管区の司教となったからである。16世紀まで、ブルターニュの人は一種の巡礼(Tro Breiz――「ブルターニュ旅行」)をしなければならないとされていた。これはすなわち、七つの司教管区を巡る事なのである。この他にも修道院や街等の開祖となった聖人が多数いる。こうした人物の生涯にまつわる伝説がアルベール・ルグランという17世紀の修道僧によって集められている。歴史としての正確さはきわめて怪しいが、ケルトおよびアーサー王伝説が初期のキリスト教の民話と渾然一体となっているブルターニュ文化の宝庫として、尽きせぬ魅力を持っている。
|