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ドッペルゲンガー

DOPPELGANGER

ドッペルゲンガーとは、ドイツ語で「二重に出歩く者」という意味ですが、もっと簡単にダブル(Double―分身、複体)ということもあります。これは「もう1人の自身」に会ってしまう一種の心霊現象で、名こそドイツ語ですが、古今東西いろいろなところでみられています。スコットランドでは死の間際に見る自分の幻影のことを、レイス(Wraith)ともフェチ(Fetch)ともいいます。現代の精神医学用語では、オートスコピー(Autoscopy――自己像幻視)というようです。
 ドッペルゲンガーを見てしまった人の末路は悲惨で、たいていは死を迎えます。これに対処できる有効な手段は、残念なことにないようです。ある場合は自分自身を見てしまったショックで、心臓麻痺を起こして即死します。またある場合は、数日から1年以内に徐々に体調をくずし、あるいは精神に支障をきたして死を迎えます。自分の精神が蝕まれていくことに耐えられず、自殺する人もいます。
 死をもたらすドッペルゲンガーは、普通本人にしか見えないので、はたからはその男(不思議なことに、女性がドッペルゲンガーを見たという報告は、あまり聞きません)が弱っていく理由がわかりません。男のほうも、自分の気が狂ったと思われることを恐れて、なかなか人に話そうとはしません。後で日記や書き置きが発見され、人はその真相を知るわけです。
 ではなぜドッペルゲンガーを見たものは死ななければならないのでしょうか?その考え方の1つに、ドッペルゲンガーは自分の肉体から抜け出た「魂」そのものであるというものがあります。すなわち、魂を失った肉体は長くは生きられないというわけです。
 ドッペルゲンガーと似て非なるものに、特殊な変身能力を備えた化け物や、魔術によるまやかし(幻術)があります。これには直接的に相手を殺す能力はありませんが、本人がドッペルゲンガーを見たと思いこんでしまえば似たような効果があるでしょう。すなわち自分はもうすぐ死ぬのだと思い、ふさぎこんでいるうちに、本当に体調をくずしてしまうのです。解決策としては、敵の正体をあばいて、見たものがドッペルゲンガーではなかったのだと納得させるしかないでしょう。

 古来、人間には2つの魂があるという考え方がありました。たとえば、古代のエジプト人は人間の霊魂を大きくバー(Ba)とカー(Ka)に分けています。バーというのは人間が死んだ後冥界へ飛び立っていく魂で、烏の姿であらわされます。カーは、牡羊の顔をした創造神クヌゥム(Khnum)によって人間とともに造られた魂で、その人間とそっくり同じ姿をしていますが、目には見えません。人間が死ぬとカーはその肉体から抜け出し、墓やその近辺に住むといいます。
 ふだんカーはその人間とともにいますが、時々一人歩きをします(眠っているときに抜け出す魂は、人の形ではなく小さな動物の姿をとることがあると信じられています。それは蝶やトンボや(バーのように)鳥であったり、蛇やイタチやネズミの姿だったり、時には人魂であったりします。もしこの動物(魂)を捕まえて帰さなかったり、傷つけたりすると、肉体のほうも弱って、しまいには死んでしまうことになります。フレイザーの「金枝篇」第18章によれば、呪術師はよくこれを利用して人を呪い殺したり、逆にどっかへいってしまった魂を肉体に呼び戻して命を助けたりするといいます。)。それは普通、肉体が眠っているときで、起きてからその内容を夢として思い起こすことがあります。このカーが、目を覚ましている本人の前に現れたとき、ドッペルゲンガー現象が起こるのです。
 このような考え方は何もエジプトにかぎりません。スカンジナヴィアではカーにあたるもののことをフィールギヤ(fylgja)と呼びます。中国ではバーにあたるものをコン(魂――精神をつかさどる気)と呼び、カーにあたるものをハク(魄――肉体をつかさどる気)と呼びます。それに、日本では一人歩きする魂のことを生霊と呼びます。

 ドッペルゲンガーは、よく文学作品の題材にもなります。有名なのはボーの『ウイリアム・ウィルソン』、H.H.エーヴェルスの『プラーグの大学生』、アルフレッド・ノイズの『深夜特急』などですが、結末はどれも主人公が自分のドッペルゲンガーを殺し、その結果自分も死にいたるという悲劇的なものです。少し異色なのはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』で、この作品ではドッペルゲンガーの役を、肖像画が担っています。ドリアンが快楽を求めて堕落していくうちに、その肖像画はドリアンの心を映すかのように醜くなっていきます。物語の最後では、ドリアンはこの肖像画を描いた画家のバジルを殺し、醜く見るに耐えなくなった絵をもナイフで突き刺します。しかし死んだのはドリアン・グレイで、その姿はあの肖像画のように醜く老けていました。肖像画の方はといえば、死ぬ寸前のドリアンそのままの美貌をたたえていたのです。
 すなわち、絵や鏡に映った姿、そして影(英語のシャドウ(Shadow――影)やシェイド(Shade――陰)は、同時に死霊という意味でもあります。影の国である冥府の住人、というわけでしょうか。)は、ドッペルゲンガー同様自分のもう1つの魂であるという考え方もあるのです。よく吸血鬼や悪魔に魂を売ったものは影がなくなり、鏡に映らなくなるといいますが、これも同様です。ドリアンは自分で自分の魂にナイフをつきたて、死んだのです。

 ところで、例外的に致命的でないドッペルゲンガーの話があります。すなわち、ユダヤ教の預言者の中には、同時に2ケ所で説教をした人がいるのです。この「同時存在」は預言者の条件の1つのようです。逆にいえば、預言者なればこそ、自分の分身を見ても死なないでいられるともいえます。ちなみに、ゲーテ(彼が見たドッペルゲンガーは8年後の自分の姿でした。未来のドッペルゲンガーを見た場合、自分がちょうどその歳になったときに死ぬという話もありますが、ゲーテには通用しなかったようです。)は21歳の時にドッペルゲンガーを見ましたが、その後83歳になるまで長寿をまっとうし、かの大作『ファウスト』を書き上げました。芥川龍之介もドッペルゲンガーを見たことがあるそうです(自殺しましたが……)。すなわち、ドッペルゲンガーへの対抗手段は、非凡な天才や聖人になる以外なさそうです。もっとも、そう簡単になれたら、誰も苦労はしないのですが。

分身(ダブル)


 鏡や水に映る姿と双生児に暗示もしくは触発されて、分身という観念は多くの国に共通のものである。ピュタゴラスの「友ほもうひとりの自己」とか、プラトン的な「汝自身を知れ」とかいう文句は、おそらくそれからの発想である。ドイツ語ではこの分身を<Doppelganger>といい、「二重に歩く者」の意味である。スコットランドには<fetch>というのがあり、人間を死へ運ぷために連れに(to fetch)やってくる。<wraith>というスコットランド語もあって、人が死の間際にみるという自分そっくりの姿を意味する。自分の姿に出会うのは、それゆえ不吉である。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ティコンデロガ」という悲劇的バラッドは、このテーマの伝説を歌っている。ロセッティの風変わりな絵(「彼らはいかにして彼ら自身に出会ったか」)もある。ふたりの恋人同士が、とある森の薄暗がりで自分たちに出食わすのである。ホーソーン(「ハウの仮面舞踏会」)、ドストエフスキー、アルフレート・ド・ミュッセ、ジェイムズ(「なつかしの街角」)、クライスト、チェスタトン(「狂人の鏡」)、ハーン (『中国の幽霊』)などの例も挙げてよいだろう。
 古代エジプト人は、分身<ka>がその人間とまさしく瓜二つで、同じ歩き方をし、同じ服を着ていると信じていた。人間だけではなく、神々や獣、石や木、机やナイフもおのおの分身<ka>をもっていて、神々の分身をみることができ、神々によって過去と未来の出来事の知識を授けられたある種の僧のみが、それをみることができた。
 ユダヤ人にとっては、自分の分身の現われは差し迫った死を意味する不吉な徴ではなかった。逆に、予言者のカを得た証だった。そういうふうにG・G・ショーレムは説明している。タルムードに記されている伝説のひとつに、神を捜し求めて自分自身に出会う男の話がある。
 ポオの「ウィリアム・ウィルソン」という物語では、分身は主人公の良心である。主人公はそれを殺し、そして死ぬ。同様に、ワイルドの小説のドリアン・グレイは自分の肖像画をナイフで突き刺し、自分の死に出会う。イェーツのいくつかの詩では、分身はわれわれのもうひとつの面、われわれと正反対のもの、われわれを補う存在、いまのわれわれでも将来のわれわれでもない存在である。
 ギリシア人は王の特使に<もうひとりの自分>という名を与えた、とブルタークが記している。