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呪術

【Magic Shamanism】

太古より、様々な魔法を紡いできた呪術師。その活躍は、数万年前から現代まで連綿と続いています。文献の残っているたかだか数千年しかない、他の魔術師とは歴史の古さが違うのです。そのような呪術師の中には、神を降ろすシャーマンもいましたし、物にマナを込める呪い師もいました。マナという言葉で魔法に関連するものは、二つあります。一つは、旧約聖書において、神がイスラエル人に与える為に毎朝降らせた神々の食事の事です。蜜入り菓子のような味で、煮ても焼いてもおいしいといわれています。もう一つは、太平洋の島々の言葉で、【名誉】や【威信】といった意味合いの言葉です。このマナは、あらゆるものの〔人間にも、道端の石にも〕に込められていますが、マナがより多く込められたもののほうが、そうでないものよりも強力であるといいます。例えば、部族と部族が戦う時など、族長のマナが大きい方が勝利するのです。ここでいうマナは、後者のマナのことをさしています。天候を操作する雨乞い師も、病を治す魔法治療師も、このような超古代から生き残った呪術師の一翼を担っています。それでは、呪術師とは何なのでしょうか。どのような魔法理論をもとに、どのような魔法を使うのでしょうか。
それを知るためには、超古代の人々の生活を知る必要があります。そうする事で、魔法がどのように発達してきたかを知る事ができるのです。呪術の中には、〔意志呪術〕とでも言うべきものがあります。これは、望む事柄を強く願い、口に出したり、儀式を行ったりする事で、その事柄を引き起こす呪術です。人間の想念をエネルギーとした呪術なのです。現在でこそ、【呪】という文字には〔まじない〕と〔呪い〕の二つの意味がありますが、古代においてこれらは同じものをあらわしていました。
共感呪術と意志呪術の間に明確な区切りができるはずもないのです。共感呪術を行うにしても、術者は自分の意志を呪術の成功に向けているはずです。術の成功の為には、二つの呪術は共に必要なのです。丑の刻参りを例にとってみましょう。丑の刻参りとは、日本において最も有名な呪詛の方法で、頭に鼎を逆さに被り、その脚にろうそくを立て、白装束に胸には鏡を下げ、午前2時〔丑の刻〕に神社の境内の木に、憎い相手の髪の毛をいれたわら人形を五寸釘で打ちつけると、相手は苦しんで死ぬといわれています。この呪術の中には、感染呪術・類感呪術・意志呪術の全てが盛り込まれているのがわかるでしょう。まず、わら人形を作ること、これは相手に似た姿を作るという意味で類感呪術です。そして、その人形の中に、憎い相手の髪の毛を封じこめること、これは感染呪術そのものです。そして、深夜2時〔丑の刻〕に神社に行って、「死ね、死ね」といいながら儀式を行う執念は、まさに意志呪術を行っているわけです。これは、現在でも、神社の木に討ち付けられた呪いのわら人形が見つかる事があります。その意味では、丑の刻参りは現在でも生きている魔法なのです。感染の法則、類似の法則などは・・・・人間の直感に訴えるわかりやすいものです。しかし・・それではその神秘的なつながりとは何なのでしょうか。そして、そのつながりを通して、一体何がつたわることによって魔法をかけているのでしょうか。呪術の理論は、これらの問に答えてはくれません。現在でも、その答えは存在しません。物に宿る精霊同士のつながりではないかと想像する事は可能ですが、確固とした理論はないのです。けれど、音声がどのように空気中を伝わっているのか、知らなくても会話は出来ます。電気の理論を知らなくても、テレビを見る事は出来ます。これと同様に、呪術もいかなる理由かは答えられないものの、それを使う事はできるのです。この意味では、呪術は科学の段階に至らず、未だ経験則を積み重ねた技芸の段階にとどまっています。このせいで、呪術の儀式には、ほとんど応用性というものがありません。呪文の文句や抑揚、そのときのしぐさ、儀式を行う時期、参加する人間まで全て変えてはいけません。呪文の微妙な抑揚や、些細なしぐさまでいっさいのあやまりは、許されないのです。これは、呪術の理論が存在しないため、それらをどのように変更したら、どのような変化が現れるのかを予測することができないからです。理論のきちんと存在する魔法なら、例えば儀式の時間が不足している時、代わりに参加人数を倍にすればよいとか、そのような指針を出す事が出来ます。
しかし、呪術にはこのような理論が存在しないので、過去の経験で正しかった実例を踏襲する以外の方法がないのです。